三内丸山遺跡

縄文時代(じょうもんじだい)は今から約13,000年前に始まり、約2,300年前に終わったと言われている、時代区分のひとつです。(諸説があります。)

世界史では中石器時代ないしは、新石器時代に相当する時代となります。

青森県青森市にある「三内丸山遺跡」は、今から約5,900年前~4,200年前の日本最大級の縄文時代集落跡です。

今回は「三内丸山遺跡」を通して、日本の縄文文化についてお伝えします。

三内丸山遺跡

1992年から行われた発掘調査によって、当時の自然環境や生活などが具体的に解明されつつあり、縄文文化のイメージを大きく変えました。

大型掘立柱建物跡

縄文時代中期(紀元前3,000年~2,000年)の、祭殿に用いられたと見られている高床建築の遺構が出土しました。

地面に穴を掘り柱を建てて造った建物で、柱を立てるための穴は直径約2m、深さ約2m、間隔が4.2m、中に直径約1メートルのクリの木の柱を入れています。

今の文章で氣づいた方もいらっしゃるかと思いますが、「間隔」は「約4.2m」としていません。

縄で測ることをしていたと思いますが、かなり精度の高い技術を使っていたこととなります。

大型竪穴建物

「三内丸山遺跡」では最大のもので長さ約32m、幅約10mのものが見つかっています。

集会所、共同作業所、共同住宅などの説があります。

これだけ大きな建物を建てるには、かなりの技術が必要となります。

交易・交流

遠方からヒスイ、黒曜石、琥珀などが運び込まれています。

黒曜石はガラスとよく似た鋭く割れる石で、その切れ味の良さから刃物として使われたり、矢じりとして使われたりしていました。

注目してもらいたいところは「どこから運ばれてきていたか?」ということです。

北海道、秋田県、山形県、新潟県、長野県など、日本海を中心として地域の黒曜石が運ばれてきたことが判明しています。

黒曜石の産地で一番遠いのは長野県です。
直線距離で約600km、日本海を経由して運ばれたのではないか?と言われており、舟の技術を持っていたと推測されます。

三内丸山遺跡

他地域と活発に交流・交易が行われていることが証明されています。

争いがほとんどなかった

縄文時代の集落には、周囲に堀や壁などが設置されていた形跡がありません。

「守る必要がなかった」のであったと推測され、平和的に交易・交流を行っていたと考えられています。

縄文土器

縄文土器
ウィキペディアより引用

縄文土器(じょうもんどき)は、北海道から沖縄諸島を含む日本列島各地で縄文時代に作られた土器のことを指します。

写真は「火炎型の土器」ですが、祭祀用であったと推測されています。

注目したいのは、デザインは地域により変わるものの、北海道から沖縄諸島を含む日本列島各地で見つかっていることです。

  • 別々の場所で生産され系統性も異なる土器が、ひとつの遺跡に共存している
  • 別の系統の文様がひとつの土器に併用されている
  • 西日本の一型式が遠く離れた関東に移動し、その遺跡の起源となっている

ということが判明しており、縄文時代に人の集団の移動や集団間の接触・交渉があったことを示しています。

ストーンサークル

大湯環状列石

写真のストーンサークルは、秋田県鹿角市にある縄文時代後期の大型の配石遺跡「大湯環状列石(おおゆかんじょうれっせき)」のものです。

夏至の日に太陽が沈む方向を正確に示していることや、日時計のような形になっているものがあることから「暦」の技術を既に持っていたと考えられています。

交易・交流で「次はいつ頃来る」や「いつ頃行く」といった約束をするのに、暦は不可欠です。



縄文時代の先人たちは、原始的な人々として教えられていますが、自然と会話し共存共栄し、高度な技術を持って生活していたことが伺えます。

このような視点から、日本各地にある遺跡を観ることも面白いと思います。

縄文時代の先人たちは、どんな人々だったのだろうか?と想像し、遠い過去に興味を持っていただければと思います。


三内丸山遺跡MAP