自然

日頃私たちが使っている日本語に「自然」「神」があります。

しかし「自然」「神」という言葉は、比較的新しい言葉です。

なぜ「自然」と「神」なのか?
切っても切れない関係性があるからです。

今回は「自然と神」についてお伝えします。

「自然」とは?

現在では「自然保護」「自然に親しむ」と言うように、自然には人間が含まれていません。
しかし「自然体」などのように、人間を含んだ全体という意味として理解できる使い方もしています。
どうやら私たちは、使い分けをしているようですが、語源はどこから来ているのでしょうか?

先人たちは自然の中に溶け込んで共存し生きてきました。
周囲の木も草も当たり前の存在であり、人間も同じとして区分けする必要がありませんでした。
昔は、今私たちが普通に使っている「自然」という言葉はなかったのです。

自分に関しても万物についても「おのずから、そこにあるもの」を意味していました。
状態を表すことばであり,存在を示す名詞ではありません。

江戸時代に蘭学・英学が日本に入り「nature」の翻訳が必要となりました。
翻訳の際に「人為の加わらないこと」の意味として「自然」という言葉が当てられました。

「nature」の翻訳以降、2つの意味が混在することになったのです。

  • 人間を自然と対立させて考える西欧的自然観
  • 人間は自然の一部と考える東洋的自然観

神とは何か?

元々日本には「神」という具体的な存在はありませんでした。
日本に「神道」または「惟神の道(かむながらのみち)という言葉ができたのも、江戸時代末の国学者逹の提唱です。
「自然」と同じ頃にできた言葉なのです。

キリスト教が日本に入ってきた時、キリスト教で信仰の対象となるものは「デウス」「天主」などと呼ばれ「神道の神」とは別のものとされていましたが、明治時代に同じ「神」として訳されました。

「God」≠「神道の神」なのです。

人間も死ねば「神」になります。
また、物も「神」になります。
大事に使われた道具は100年経つと「九十九神(つくもかみ)」になると言われています。
家にも「神」がいて「屋敷神」と言ったり、蔵には「蔵の神」、トイレなど樣々な「神」が存在し、私たちは「神」と共に暮らしています。

祭祀など「春の御田植」「秋の収穫」のように、生活や季節と共に行われています。

「神道の神」は「おのずから、そこにあるもの」として、万物は共存するものとして「八百万の神」と表現します。
「八百万」とは「たくさんの(無限の)」という意味で使います。

アメリカから社会学の研究者が来日し「神道」という言葉を英訳するのに困りました。
神道は「宗教」ではありませんし「教祖」もいなければ「教典」もありません。
生活や季節と共に営まれていますので「神道」を「ジャパニーズ・ライフ」と名付けました。

生活習慣や慣習そのものが「神道」なのです。
「神道の神」は「森羅万象と一体化した存在」であり「超越した絶対神」ではありません。

「自然」は人々に恩恵をもたらすとともに、時には人に危害を及ぼします。
先人たちは「何かの怒り」と考え、怒りを鎮め、恵みを与えてくれるよう願い、崇敬するようになり、後に「神」と呼ぶようになりました。
「何か」とは、おそらく森羅万象を司る「宇宙の原理原則」なのだと感じることができます。

日本語にはあいまいさがあります。
他言語と共有するためには、意味を限定化しないと伝わらないために、あいまいさを回避しようと造語していたりします。



言葉の語源は何か?
奥にある想いは何か?

日本語は「感じる言語」なのだと思います。